ビジネススクールの海外PhD留学への出願①

こんにちは。こちらでの生活が始まって一年が経ち、ようやくこれについて書こうと思い立ちました。別に書きたくなかったわけでは全くないのですが、何となく気恥ずかしったのと、出願時期は精神的に結構しんどかったので、あまり思い出したくないという思いもありました。



こう書いてしまうと、現在PhD留学を考えている人をビビらせてしまうようですが、逆に言えば、海外PhD留学において一番精神的にしんどいのは、この「出願」だと言っても過言ではないくらい、ひとたび渡航してしまえば留学生活はとても楽しいものです。

勿論コースワークの大変さや言語の壁、なかなか進展しない研究、ジョブマーケットなどストレスポイントはこの先幾らでもあります。しかし、個人差はあるかもしれませんが、“最初の一歩”が何よりも一番大変であり、そこを踏み出せなかったために留学を諦めてしまった方も沢山いるのではないかと思います。今回はそんな人たちを少しでも後押しできればと思い、とりわけ海外のビジネススクールへのPhD留学を考えている日本人の方に向けて書こうと思います。またここでは、僕のように海外での生活や留学の経験がなく(いわゆる純ジャパ)、英語に対して大きな壁を感じている方を想定しています。



簡単に僕自身の出願がどのようなものだったのかをまず書いておくと、僕は日本の大学院で博士一年のときに出願をしようとして、修士号を取って以後、準備を始めていました。しかし、TOEFLの点数が思うように伸びず、また日本で行っている研究プロジェクトと掛け持ちだったため、準備も中途半端で、結局その年は出願できませんでした。そして、翌年の博士二年のときにようやく出願をすることになりました。つまり、準備期間に二年近く費やしたことになります。出願をしたのは、アメリカ及びヨーロッパ圏の七つの大学(うちビジネススクールは五つ)で、結果として今在籍しているUniversity of Marylandと、イギリスのLSE(London School of Economics)、そしてドイツのUniversity of Mannheim、計三つの大学からオファーをもらうことができました。



最初は右も左もわからず、漠然と「留学したい」と考えていても、どんな準備をどんな時間軸で進めていけばいいのか、全くわかっていませんでした(その結果の二年間です)。PhD留学の出願はそもそも経験者が少ないですし、ましてやビジネススクールともなるともっと少ないです。インターネットで体験談などを調べようとしても、出てくるのはMBAばかりでPhDの体験談はほとんど見つかりませんでした。


日本の大学に在籍しておられる経営学系の先生方のなかにも、海外PhDを取られている方はいらっしゃいますが、数は決して多くありませんし、先生方が留学されたときと比べると、現在では状況が大きく変わっている部分も多々あります(例えば、一昔前と比べると、現在ではTOEFLがかなり難化していますし、アジアの学生の競争が非常に激しいです)。そういう意味で、このブログが現時点(2019年時点)での情報源の一つとして、少しでも留学を考えている人の役に立てれば良いなと思っています。



さて、出願において考慮しなければならないポイントは幾つかあると思うのですが、大きく分けると、①出願のタイミング、②出願書類の準備、③スクール(とアドバイザー)選び、になってくるのではないかと思います。今日はまず、一つ目の「出願のタイミング」についてお話しします。



出願をするタイミングなのですが、当たり前の回答としては「留学したいと思ったとき」であればいつでも良いです。いろいろなキャリアを歩んでいる方がいますし、近年ではPhD学生の年齢も多様化しています。僕のスクールでも最年長の学生は40歳を超えていますし、同級生には30代の元プロテニスプレイヤーもいます。


ただ、社会人経験などは正直あってもなくても良いと思います。社会人経験があるからプラスになる、ということは、少なくともPhDにおいてはあんまり無いんじゃないかと思います(スクールによって違うかもしれません)。それよりも、僕個人のオススメとしては、社会人経験があってもなくても、出願をする前に、まず日本で経営学あるいはその周辺領域の大学院に一旦在籍するのがいいのではないかと思います(経営学であれば、MBAではなく研究者用のプログラム)。そして実際に出願をするのは、修士号を取ったタイミングくらいが一番いいかもしれません。その理由は、大きく分けて4つあります。



まず1つは、アカデミックな論文を読む訓練を事前に積むことができる点です。学部を卒業していきなりアカデミックな論文を大量に読むのは、日本語であっても大変です。海外のPhDともなると、“英語の壁”と“アカデミックの壁”、という二重苦に同時に対応していかなければなりません。これは、ビジネススクールのコースワークにおいて、論文を大量に読み込む授業が主流であるという点で、特有の事情なのかもしれません。あらかじめ数年日本の大学院で訓練を積めば、後者の壁を多少なりとも緩和できるはずです。


また、英語の論文を読み込む力は、ひいては英語でのディスカッションの場でも活きてくると思います。ビジネススクールのコースワークは、少人数のディスカッション形式の授業が大半です。日常会話とアカデミックな議論の場は全くの別物で、前者は論文を読んでいても身につかないと思いますが、後者はその限りではありません。アカデミックな表現や文法に慣れ親しんでおくことは、留学中のコースワークについていくうえで、非常に重要です(勿論それだけでは充分ではありませんが)。逆に、そういった訓練をこれまで受けてこなかった学生のなかには、僕より英語ができるにもかかわらず、授業についていくのに困難を感じる学生もいます。



2つ目は、より良いresearch proposalを書きやすい点です。多くのビジネススクールでは、出願の際にresearch proposal(あるいはessay)を求められることと思います。日本の大学院でのトレーニングを受けるなかで、多少なりとも自分がどういうテーマに興味があるのかわかってくると思います。

Research proposalは、テーマが具体的であればあるほど良いと思いますし、出願先のfacultyとのフィットが極めて重要です。また、修士論文を書くプロセスのなかで、何となくどういった研究が現在進行形でなされているかをレビューすることになりますので、それはそのままproposalにも活きてくると思います。経営学は近接領域と比べても、トピックや方法論、学問的レンズが多岐にわたる領域だと思いますし、悪く言えばfragmentedです。そういう意味では、相手方のfacultyのストライクゾーンにピッタリ当てはまるようなproposalを提示できるかどうかは、けっこう重要だと思います。



3つ目は、日本の大学の先生とより親密な関係を築くことができる点です。これはちょっと言いにくいですが、留学を考えているのであれば、ある程度打算的に指導教官の先生を選ぶことも必要になってくると思います。よく知られているように、PhD出願において、指導教官の先生からの推薦状は極めて重要だからです。推薦状が、実際に合否の意思決定の何%分を占めるのかはわかりませんし、勿論全くコネクションがなくてもオファーがもらえることはあります。ですが、より良い推薦状がプラスになることは間違いありませんし、「この先生が薦めるのであれば」、という理由でオファーが出るケースも少なくないと思います。


重要なのは、推薦をしてくださる先生が、日本のなかでどれだけ高名でいらっしゃるかどうかは、正直全くと言っていいほど関係がないということです。こと推薦状に限定して言えば、海外とのコネクションに乏しい大御所の先生よりも、海外の研究者と共同研究をやっていたり、現在進行形で海外ジャーナルに論文を投稿しておられる若手の先生の方が圧倒的に良いと思います。この辺りは、100%留学を考えているわけではない方にとっては、難しい選択かもしれません。
しかし、主の指導教官だけでなく第二・第三の指導教官としてそのような先生に指導を仰ぐことはできると思います。また、そのような直接的な関係がなくとも、多くの先生は積極的にこちらからアプローチすれば真摯な対応をしてくださいますし、PhD留学したいという熱意をしっかり伝えれば、喜んで協力してくださる方がほとんどだと思います。



4つ目の点は、日本の大学院で一度研究をしてみる(修士論文を書く)という経験は、スクール選びに良い影響を及ぼします。他の学科はどうなのかわかりませんが、ことビジネススクールのPhDに関して言えば、知名度とか大学ランキングとかそんな指標よりも、facultyとの研究のフィットが一番大事だと思っています。「この先生の論文が好き」とか「この先生のプロジェクトに参加したい」とかを出発点として、そこからその先生のいるスクールに出願したい、というスクール選びが一番自然な流れなのではないかと思います。もちろん、「どの国に行きたい」とか、「ある程度の大学院のハクは欲しい」など、スクール選びの評価基準は個人によって様々だと思いますので、それは大事にすべきだと思います。しかし、facultyとのフィットを疎かにして出願校を決めてしまうと、結果としてオファーをもらえないケースが多いと思いますし、オファーをもらえたとしても渡航後に「思っていたのと違う」、と後悔してしまうことになりかねません。


ただ、この点に関しては若干注意が必要で、指導を仰ぎたいfacultyがずっとその大学院にいる保証がないというリスクはあります。とりわけ、まだテニュアを取っていない若手の先生だと、別の大学に移ってしまう可能性は高くなります。こればっかりは、どうしようもないと言えばどうしようもないかもしれません。もしどうしても気になるのであれば、本人にコンタクトをとり、思い切って直接聞いてみるのもいいかもしれません(そういう内容は聞いたことないので、聞いていいものかどうかよくわかりませんが)。



以上、出願のタイミングについて簡単にまとめました。もちろん、ここで書いたのはあくまで参考程度に、ということで良いと思います。しっかり自分の研究関心や方向性が決まっている人や、英語に高い障壁を感じていない人であれば、学部を卒業してすぐに留学するのも全然良いと思います。むしろ、そのようなプロセスを踏むことに高いハードルを感じている人にとっては、一度日本の大学院をクッションとして挟むことで、よりスムーズにPhD留学に結びつくのではないかと思います。


PhD留学においては、「急がば回れ」の精神が非常に重要です。一刻も早くジョブマーケットに出たいとか、人生を一年たりとも無駄にしたくない、という考えは決して悪くはありませんが、個人的には20代はじっくり“投資”をする時期だと思っています。僕は4年日本の大学院に通ってから、こちらのスクールでさらに5年、PhDプログラムを受けることになりますが、全く後悔はしていません。PhD留学にはそれだけの投資をする価値があると思っていますし、出願においても、「今年ダメでも来年リトライしよう」くらいの気持ちで、気長にチャレンジしても全然良いと思います。


次回は、出願をするうえで肝心な必要書類と試験について話したいと思います。それでは、また。

一年目春学期

一年目の夏休みも3分の2が終わりました。今日は、一年目の春学期にどんな授業を受けてきたかを、思い出しながらまとめたいと思います。春学期も秋学期と同様、本学では前半期(タームC)と後半期(タームD)に分かれており、片方のタームだけの授業もあれば、学期を通じて受ける授業もあります。


・Overview of Starategy & Entrepreneurship (3時間半×7回、タームC)
- Reading: 論文6~9本
- Assignment: readingをもとに研究アイディアのレジュメ
- Final exam or paper: readingをもとにしたプレゼンテーション(自由課題)

- 内容: 個人的に、一年を通じて一番良かった授業でした。具体的には、アドバイザーでもあるRajshree AgarwalとDavid Kirschという二人の教員による授業で、まず二人のバックグランドがeconomicsとsociologyなので、全く違った見地から同じテーマについて議論できるという点と、もう一つは、overviewというだけあって、経営学研究をつまみ食い的に俯瞰的に議論するという、今までにない経験ができたことでした。これは僕に限らず日本の経営系の大学院生ではよくあることだと思うのですが、基本的には指導教員ー学生間のapprenticeshipが前提となっているので、院生は指導教員の思考法や研究領域、方法論に多大な影響を受けることと思います。これは良い面も勿論あるのですが、他の領域の考え方に触れる機会が少なく、受け継がれた思考法や方法論にとらわれすぎてしまうという欠点もあります。経営学がある程度解釈学的な側面を持つのだとすれば、物事の解釈のための道具が一つか二つしかない、というのは非常に不幸なことだと思います。


・Innovation & Entrepreneurship (3時間半×7回、タームD)
- Reading: 論文6~9本
- Assignment: readingをもとに研究アイディアのレジュメ
- Final exam or paper: readingをもとにしたプレゼンテーション(自由課題)

- 内容: これも同じくRajshreeによる授業ですが、こちらはもっと彼女の専門領域に寄った、industry evolutionやentrepreneurship系の授業です。フィールドはmanagementに限らず、labor economicsやIO、あるいはmarketing系の論文も読みました。彼女のことを尊敬すべき点は多々あるのですが、一番凄いと思うのは、自分がこれまで培ってきた経験に彼女がほとんど縛られていないことです。研究のベースはあくまで彼女が興味を抱いた現象の謎であり、それに最も適した方法論や理論的枠組みを探して当てはめるという、やろうと思ってもなかなかできないことをずっと続けています。これは、彼女の師(直接の師ではありませんが)の一人である、Steven Klepperの影響だそうです。だからこそ色んなフィールドの研究者と接点があるし、いろんなタイプの院生が彼女のもとに集まるし、それが結果としてまた彼女のフィールドを拡げる、という好循環になっているんだろうと思います。


・People & Performance (3時間半×7回、タームC)
- Reading: 論文4,5本
- Assignment: 全論文についての要約+研究アイディア
- Final exam or paper: 自分のresearch proposalの発表

- 内容: こちらの授業は少々毛色が違って、”純” economistの先生によるtop management系の論文を読む授業です。僕の専門や関心とは大きく違っていたのですが、僕が今まで読む機会のなかったタイプのeconomics系トップジャーナルに掲載されている素晴らしい論文を沢山読み、それについて議論するというのは貴重な経験でした。ただ、同時にこの授業は、一年を通じて精神的に一番しんどい授業でもありました。assignされた論文の全要約を毎週書かなければならないというタフさもそうですが、それより何より、受講者が僕ともう一人しかいなかったからです。しかもこのもう一人は、一学年上のアメリカ人の学生で、僕の目から見てうちのスクールで一番賢い学生でした。彼とはそこそこ仲が良いのですが、喋るスピードがとにかく速く、頭の回転も早いので、授業では先生と彼の議論のスピードに全くついていけず、疎外感を感じてばかりでした。議論に置いて行かれるとか的外れなコメントを言ってしまうといった経験は今までにも勿論ありますが、ここまで屈辱的な思いをしたことは今までなかったですし、授業の日の夜はよく眠れないというのが毎週続いたのも、この授業が初めてでした。


・Econometrics (1時間15分×週2回+TA session、タームC・D)
- Assignment: 2週の1回くらいの宿題
- Final exam or paper: 中間及び期末試験

- 内容: 秋学期に引き続き、econometricsの授業です。前半はtime series、後半はnon linear regressionとpanel dataでした。これは何といっても、前半のtime seriesの方についていくのが本当に大変でした。中間試験で平均点以上を取れたのは奇跡的だと思います。



以上の他にも、秋学期にもあったStudent presentation seriesとCross diciplinary workshopは変わらず続いています。春学期は秋学期よりずっと忙しく、結構しんどい時期もあったんですが、今振り返ってみれば、よく大学院留学経験のある方がおっしゃられるような、「”地獄”のような経験」というほどではありませんでした。これは僕のスクールのコースワークがヌルいのか、はたまた僕が手を抜いていたのか(そんなつもりはありませんが)、それはよくわかりません。あるいは、肉体的な忙しさというより、精神的な部分の自己管理の方が重要だということかもしれません。

それから、僕がすでに4年間日本の大学院で学んでいて、論文を読む力などがある程度ついていたことも大きかったと思います。研究のイロハもわからず、加えて英語もついていけない、という二重苦では、一年目を乗り切るのはかなりしんどかったと思います。とりわけ博士課程の留学を考えている人にとっては、少なくともどちらかをある程度克服したうえで渡航した方が、比較的スムーズに(といってもしんどいですが)留学生活を送れるかもしれません。

一年目秋学期

お久しぶりです。長い間更新せずにほったらかしにしてました、すいません。忘れてたわけじゃないです。留学一年目が無事終了しました。終わってみれば、本当にあっという間だったと思います。今回は一年目に僕が受けてきたコースワークについて、振り返る意味もかねて簡単に紹介したいと思います。

ビジネススクールのPhDプログラムがどんな感じなのかというのは、おそらく留学を考えている人にとっては(考えている人でなくても)興味があるのではないかと思ったからです。ひけらかすようなことをしたいわけではないので、なるべく主観を排して客観的に何をやってきたかをまとめます。


まず簡潔に、こちらの大学でのセメスター(学期)の仕組みについて、馴染みのない方のために説明させていただくと、一年はおよそ4カ月くらいを一学期とした二学期(秋・春)制で、、各学期はさらにちょうど半分ずつのタームに分かれています。秋学期のタームA(9月始め~10月中旬)・タームB(10月末~12月中旬)、春学期のタームC(1月末~3月中旬)・タームD(3月末~5月中旬)、といった具合です。コースワークの中には、ターム一つ分だけの授業と二つにまたがる授業とがあります。今回は秋学期の授業について紹介します。


・Research Methods Foundations in Management: Micro Perspectives (3時間半×7回、タームA)
- Reading: 論文3~7本+教科書のチャプター3~5章
- Assignment: Readingの中から一本の論文についての要約+プレゼン
- Final exam or Paper: アサインされた論文一つのレプリケーションのFinal paper

- 内容: 心理学ベースのOrganizaiton Behaviorの方法論の授業です。最終課題は、あるOB系の論文のレプリケーションで、実際に実験を行いました。内容は基本的なValidityの考え方やMeasurement errorとbias、Method choiceなどです。


・Formal Theory (3時間半×7回、タームA)
- Reading: Formal modelを用いた論文2~4本
- Assignment: 論文を理解して授業に臨む
- Final exam or Paper: アサインされた論文一本の解説

- 内容: 僕のアドバイザーの授業です。Economic modelを用いたEntrepreneurship関連の論文を皆で読んできて、先生の解説を聞きながら議論していく、といった内容です。アドバイザーの授業だからというわけではありませんが、正直一番事前準備に時間を費やした授業です。今だから告白できますが、授業を受ける前までは、微積分や確率の知識がかなり欠落していて、Economic modelについてもFirst Order Conditionを解くんだな、くらいの知識しかありませんでした。勿論今でも完全な理解からは程遠いところにいますが。


・Strategy & Entrepreneurship Research Methods (3時間半×7回、タームB)
- Reading: 論文2~4本+教科書のチャプター1~2章
- Assignment: Readingの中から一本の論文についての要約+プレゼン
- Final exam or Paper: アサインされた論文一つのレプリケーションのFinal paper

- 内容: Strategy & Entrepreneurshipの分野の方法論の授業です。こちらの授業も最終課題は、ある論文のレプリケーションスタディでした。この授業は結構印象に残っているものが多くて、まず最初の授業でPower Posingの実験の論文とその論文の著者のTED talk、それからそれに対する批判論文及びメディアの記事を読まされたのは結構衝撃でした。厳密性を欠いた研究を行うことがいかに危険かということを思い知らされます。ご存知ない方はぜひ調べてみてください。あとはやっぱりObservational dataを使ったレプリケーションですね。実際に自分で手を動かしてみると、いかに実証上のtransparencyを担保するのが大切で、結果の再現性が容易に達成されないか、ということを肌で感じることができたのはよかったです。しかも、レプリケーションの対象となった論文は、その分野ではtop scholarの論文(working paperでしたがR&Rの段階)でした。


・Econometrics (1時間15分×週2回+TA session、タームA・B)
- Assignment: 2週の1回くらいの宿題
- Final exam or Paper: 中間及び期末試験

- 内容: Econometricsの授業です。うちのビジネススクールには該当する授業がないので、Econ. departmentのエコノメの授業を受けてました。行列をひたすらゴリゴリ解くタイプのあれです。こちらに来るまでエコノメの知識は正直言ってかなり薄く、常々表面的な知識で回帰分析を回していることに罪悪感を感じていたので、基礎からしっかり学べたのにはかなり満足しています。


・Student Presentation Series (毎週1時間30分、タームA・B)
- 内容: 読んで字のごとく、学生の研究発表セッションです。毎週一人ずつ担当の学生が、学期ごとに割り当てられた2名の教員と他の学生の前で研究発表を行います。一年目でも勿論何かしら発表をする必要があります。他の学生が何に興味を持っているかを知ることができると同時に、教員がどういう視点でフィードバックをするのかを学ぶという点で、非常に良い機会でした。朝早いんですけど。


・Cross diciplinary workshop (ほぼ毎週1時間30分、タームA・B)
- 内容: 上の学生のプレゼンセッションに続いて行われる、ゲストスピーカーを招いての研究セミナーです。似たようなセミナーは多くの大学で行われているかと思いますが、僕が個人的に良いなと思ったのは、ゲストスピーカーを呼ばずにうちの大学のfacultyがプレゼンすることもあるという点です。facultyが現在進行形で何をやっているのかを発表し、それに対し他のfacultyのみならず学生たちも批判的にタックルしようとしているのを見るのは結構新鮮でした。秋学期で一番印象に残っているのは、Boston UniversityのMatt Marxです。研究内容が近いこともあり、人柄もすごく良いので、個人的に好きな研究者の一人です。



秋学期は以上ですね。今から考えると、秋学期は春学期に比べて単純な忙しさという点ではマシだったのですが、当然ながらすべての講義・議論が英語で、それについていこうとするのに時間がかかったことを考慮すれば、結構大変だったんだと思います。生活面でもセットアップにかなり時間がかかりましたし。内容としても、二つの授業でレプリケーションをやったり、アドバイザーの授業でひたすらtheory paperを読んだり、今まで経験したことないものばかりだったので、僕にとってはかなり新鮮だったと思います。


他にも授業の感想を書こうと思えば幾らでも書けるのですが、冗長になりすぎてしまうので、今回はこの辺にしておきます。もし何か質問があれば、匿名でも全然いいのでコメント欄で質問してください。そこまで興味をもって読んでくれている方がいらっしゃるのかはわかりませんが。次回は春学期に受けたコースワークについて紹介します。では、また。

越境


自分が保ってきた境界を越えて、外に飛び出ていくというのは本当に大変なことだと思います。 僕は基本的に、今までとは違う環境に行って挑戦しようとする人のことは、応援することにしています。例えば転職とか、起業とか、留学とか、学び直しとか(いま話題のリカレント教育にはやや否定的ですが)、です。
いまの環境で精いっぱい頑張る人よりも、環境を変えようとする人の方が偉いとは全く思っていません。ですが、とりわけ今の環境が大して悪いわけではないのに、今と比べてもっと過酷な環境に挑もうと考えている人のことは、素直に尊敬しますし、応援したいと思っています。


最近、大学時代のある友人から連絡がきて、突然「医学部を受ける」という相談を受けました。その友人は僕の同期で、勿論大学は無事に卒業していますし(文系です)、社会人として何年も働いていました。その友人が、どういう心境で医学部に行きたいと思うようになったのかはわかりませんが(あえて聞きませんでした)、僕は素直に応援したい、と思いました。
その友人曰く、家族以外で相談できる人がほとんどいなかったそうです。恐らく、多くの人が反対はしないまでも、心配されるか懐疑的な目を向けられるかだろう、と思ったからだと思います。なぜ僕に話してくれたかというのは、僕が遠い異国の地でネットワークから遮断された環境にいるので、話しても害がないと思ったのではないかと勝手に推測しています。あるいは僕も、日本の大学院に4年いながら更にPhD留学をするという、おそらく一般的ではない決断をした人間ですので、何かしらのシンパシーを感じてくれたのかもしれません。



そして先日、その友人から、なんと「合格した」との連絡が来たのです!その友人には悪いのですが、正直僕は受からない確率の方が高いと思っていたので、心底驚きました。何でも、自分でもクレイジーな選択であることはわかっているから、今年限りの挑戦にすると決めていたそうです。一回限りの挑戦、それもかなり無謀な挑戦であるにもかかわらず、きちんとモノにしたその友人の話を聞いて、僕は心の底からその友人のことを凄いと思いました。




話は変わりますが、僕はずっと、どちらかといえば環境を変えるのにビビっていた類の人間でした(今もそうですが)。いまでこそ、自分のかねてからの願望であった留学ができていますが、そこに至るまでにかなりの葛藤がありましたし、いざ腹を決めて留学の準備をするときも、常にビクビクしながらやっていました。
失敗したらどうしようとか、周りに笑われるなぁとか、そういうくだらない(いまとなっては本当にくだらない)ことばかり考えていました。いまの環境が居心地の良いものであればあるほど、「このままでいいじゃん」っていう考えがすぐに頭をよぎっていました。それでも僕が何とか留学にまでこぎつけることができたのは、ひとえに前の大学の指導教官のおかげであったとしか言いようがありません。



前の指導教官の先生に、僕が「修士課程に進みたい」という相談を初めてしたとき、「僕のとこに来るからには、将来絶対留学しろ」と言われました。その時の僕は正直、「えぇ、何を言ってるんだこの人...」っていう感じでした。しかし、修士課程をこなしていくうちに、思っていたより学問の世界が面白いと感じ、確かにこれなら留学をしてみるのも悪くないかもしれない、と思うようになりました。



しかし、考えるのは簡単でも、いざ行動に移すとなると話は別です。というのも、周りにそういうことを考えている人間がほとんどいなかったからです。周りの人は皆目の前のやるべきことを精いっぱい頑張っていますし、そのなかで自分だけ留学したいとかいうのを思ってるのは、現実逃避しているみたいな感じでした。同調圧力、というわけでもありませんが、だんだん留学したいという気持ちは薄らいでいったのです。



あるとき、確か博士課程の一年の時だったかと思いますが、先生に「僕もう留学は諦めようかな、と思ってるんです」と相談したことがあります。家庭の事情やら結婚のことやらで留学への気持ちが折れそうになっていたこともありますし、先輩など周りの人を見ていても、わざわざ留学なんかしなくても十分にやっていけてるじゃないか、という思いもありました。


しかし、そのとき先生に言われた言葉は、

「いま諦めたら、一生後悔するぞ」

というものでした。そして柄にもなく、「山口君なら絶対やってけるんだから、もったいない」と急に僕のことを褒めはじめました。珍しいことをするもんだな、とその時は思っていました。


「一生後悔する」という先生の言葉が、僕の性格を分かったうえで言ってくれたのかどうかはわかりませんが、それから数日間あれこれ考えた結果、「確かにそうだ、自分の性格からして今ここでやめたら一生ひきずる」、という結論を出し、後悔したくないという一心だけでここまで来ることができました。



何が言いたかったかというと、僕は決して「クレイジーアントレプレナー」ではなかったということです(これ言っていいのかな)。医学部に進むことを決めた友人も恐らくそうだったと思いますが、僕は常に失敗しないかビクビクする人間ですし、周りの声を気にしますし、悪口を言われようものなら途端に傷つきます。

留学が決まったとき、何人かの人から「よく決断したね」とか「勇気がある」とか言っていただきましたが、僕は決して「ダンコたる決意」を持っていたわけではなく、「やれるだけやってみるか、と思ってやってみたら何とかなった」だけの話です(何とかなったのが、指導教官の先生はじめ多くの方の支援の賜物であったことは言うまでもありません)。




こちらに来て改めて思いましたが、とりわけ文系の日本の学生で留学をする人は本当に少ないと思います。それに対して、中国や韓国の学生は本当に多いです。日本の中でも、お隣の経済学はもっと活発で、特に東大などでは修士を出たら留学に行くのは当たり前、みたいな文化が形成されていると聞いたことがありますが(素晴らしいと思います)、経営学は本当に少ないです。


なぜ少ないのか、ということの理由の一つは、上に書いたような僕の心境と同じようなことを抱いている方が多いから、だと思います。そしてそれは、大学院生だけではありません。「外に行ったからって何になるんだ」、「今の環境でも将来は保証されるし、経済的にも社会的にも満たされた人生が送れる」、「アメリカやヨーロッパの経営学が日本の経営学より優れているわけではない」、といった考えをもっている人がいるかもしれませんし、自分は持っていなくても周りにそういう考えの人がいるかもしれません。



僕は決してそういった考えに反駁するつもりはありません。そういった考えが正しいと僕は思いませんが、重要なのは正しいか正しくないかではないからです。重要なのは、そういった考えと”心中”するつもりがあるかどうか、ということだけです。
”心中”するつもりがあるのであれば、全く問題ないと思います。そして、”心中”するという決断が悪いことだとも思っていません。それが、自分の後悔から来るものではなく(学問的には、認知的不協和の解消です)、心からそういう信念を持っているのであれば、それを曲げる権利は僕にはありません。(挑戦しようと思ってる人の信念を、「意味がない」と言って捻じ曲げようとする人のことは軽蔑しますが)



しかし逆に、もし”心中”することができなければ、「やっぱり行っておけばよかった」と一生後悔する人生が待っています。僕は、おそらく心中できないな、と思ったから留学しようと思っただけのことです。留学した人が偉く、そうでない人が偉くないということはありません。僕は、僕自身が将来後悔しないと思った選択肢をとっただけのことです。
井の中の蛙、鶏口牛後、といった言葉がありますが、言葉が意味するほど、悪いことではないと思っています(他人に押し付けないのであれば)。こちらに来て一層思うようになりましたが、自分の人生なんだから好きな信念をもって好きに生きればいいに決まっています。ただ、だからこそ、新しい環境に挑戦したいと本気で思ってるのであれば、それこそ好きにすべきです。文系の大学を出てから医学部に入ったって良いんです。自分の人生なんだから。




さて、偉そうな語り口はやめようと思っていたのですが、書いてから読み直してみたら結構偉そうなことを書いていました。文章も読みにくいですし。相変わらず文才がないです。
なぜこれを書こうと思ったかというと、じつは今日こちらに来てから一番の”屈辱”を味わう経験をしたからなのです。でも、そこに至るまでにかなり色々書いてしまったので、これはまた次回書こうと思います。それでは、また。

”地味”な科学2

皆さん、お久しぶりです。長らく更新が途絶えていました。前回の記事が終わってから、年末年始は日本に帰ってきており、友人や大学院仲間など様々な方とお会いしていました。お会いできた方にはお世話になりました。お会いできなかった方、ぜひまた次の機会にお会いしましょう。


えーと、長い間更新が途絶えていたせいで、前回書いた内容を結構忘れていて、ただ雑に書き留めていたものがあるので、それに書き加えながら思い出していきます。
あ、それから日本でお会いした方の何人かからこのブログに関するコメントを頂きました。簡単にまとめると、

・長い
・回りくどい
・何を言っているのかわからない
・予防線を張りすぎ

といった有難いお言葉でした。すみません。次回から気を付けます。


さて、前回経営学研究は新しい理論を生み出すこと、あるいは“直観に反する”、“面白い”理論や事象を追究することに傾倒しすぎている、という話をしました。そして、それとは対照的な、理論や観察結果の頑健性や再現性などを検証していくような“地味”な科学をもっと重視すべきではないかということを述べました。
例えば、実証結果がどの程度様々なセッティングのもとで成り立つものなのかを俯瞰的に検証する方法として、
meta-analysisというものがあります。これは同一のトピックに関して蓄積されてきた実証研究の結果を寄せ集めて、全体としてどういう関係性があるのかを確かめる手法です。そして、このmeta-analysisを可能にするためには、同じようなセッティングでの再検証、つまりreplication studyが必要になります。あくまで僕の所感ですが、心理学ベースの経営学研究では、かなりreplicationの文化が根付いている、あるいは少なくとも追求しようとしている感じがします。心理学ベースの経営学研究の多くは方法論として実験やサーベイを用いることもあり、概念の定義や操作化に関わる構成概念の妥当性や、結果の蓋然性にかかわる外的妥当性がとりわけ重要な論点になりやすいです。とりわけ後者の外的妥当性に関しては、このreplicationが大きな役割を果たします。

 

他方で、こういったexperimental studyとは対照的なobservational studyの世界では、replicationの文化が根付いているとはあまり言えなさそうです(ただ、最近ではこれを重視しようという流れができてきているのも事実です)。もちろん全ての論文は、論拠となる過去の文献を引用していますが、ほとんどの場合全く同じ事象の再検証ではなく、あくまで既存の枠組みで説明しきれない“付け足し”的な部分を見つけることを目的としています。
例えば、
Strategyの分野で有名な概念の一つに、”dynamic capability”というのがあります。Dynamic capabilityを提唱したDavid Teeceは、1997年のSMJの論文で、Dynamic capabilityには①Process、②Position、③Pathという三つの次元があるということを述べています。しかし、Teece1997年の論文を引用したこれ以降の論文のなかで、Dynamic capabilityの三つの次元に言及している論文はわずか18%だそうです(Oxley, 2010, Strategic Organization)。つまり、研究者の間で広く受け入れられ、何千回も引用されているような概念だからといって、それが厳密に何を指しているかが明確で(つまり、何がDynamic capabilityで何がそうじゃないか)、皆が同じ共通認識のもとでその概念についての蓄積的な研究を行っている保証はどこにもないのです。

 

これはある種、しょうがないといえばしょうがないことです。というのも、replicationを可能にするために不可欠な、概念の厳密な定義づけを行えば行うほど、それは個別事象の文脈に大きく依拠した概念にならざるを得ません。結果として、説明可能な事象が極端に狭いということになり、概念あるいは理論としてほとんど成立しえなくなります。
したがって社会科学では、概念はある程度“曖昧”にせざるを得ません。そもそも概念(ないし理論)とは、個別具体的な事象をある段階にまで抽象化させて表現したものであるがゆえに、これは当然の帰結です。また、それ以前に、言葉の限界というのもあります。複雑な社会現象を正確に、事細かに記述することは、人間の能力的にも、論文の紙幅の限界的にも難しいことです。したがって、多少の違いには目をつぶって、大まかな共通項だけを取り出して、“理論”っぽく仕立てるということをせざるを得ません。しかし、そうやってより多くの現象を巻き込みうる理論にすることが、その後の追試の可能性を狭めているのもまた事実だと思います。

 


さて、話が込み入ってきたので、結局結論を出さないままこういう類の話は終わりにしますが、ここで一つ僕が秋学期に経験したことについて述べます。
秋学期にはOrganization Behaviorの方法論の授業と、Strategic Managementの方法論の授業を受けました。OBはどちらかという心理学ベースであり、SMは経済学ないし社会学がベースになっています。僕が少し驚いたのは、どちらの授業でも、最終課題がある論文のreplication studyだったということです。先生が指定した論文を皆で読み込み、その論文が用いたものと全く同じデータ、メソッドを使って結果を再現する、というものです。OBの方は実験研究だったので、全く経験のない実験をイチからやるという経験もしました。これはなかなか面白かったです。

それで、結論としては、どちらの課題でも結果を正確に再現することはできなかったのです。同じデータ(実験の方は同じデータではなく、同じ方法で取り直した新しいデータですが)、同じメソッドを忠実に再現したにもかかわらず、です。また、同じデータを駆使し、論文に掲載されていないその他の手法を試してみると(例えば回帰のモデルを変えてみる)、全く異なる結果が出てくるということも確認しました。
ちなみに、それぞれreplicationとして課された論文は、どちらも経営学者の間ではだれもが知るトップジャーナルに載っていたものです。おそらく、先生方がこの課題を通して伝えたかった(と僕が推測した)のは、以下のようなことです。

・トップジャーナルに載る論文が、どういう手順で論点を組み立てているかということ
・社会科学における再現性(結果の頑健性)の担保がいかに難しいかということ
・トップジャーナルの論文だからといって、結果の信用性があるとは限らないこと
・正確なreplicationのために、データ処理の手法を事細かに記載する必要があること
・pseudo-scienceにならないよういかに配慮できるかに、研究者の倫理、知識、経験が試されること

結果はともあれ、この課題は僕にとって非常に勉強になることが多いものでした。一つ目の点は、追試を行う中で、自分の考えではなく、他人の考えに沿ってデータを動かしていくので、著者の思考経路をトレースするような感覚を味わうことができました。二つ目以降の点は先にも述べた通り、とはいえreplicationを可能にするような分析設計がいかに難しいか、ということです。でも、だからといって、こういった試みは不毛だといって排除しているようでは、それこそpseudo-scienceになってしまいます。Replication studyは経営学を”科学”として成り立たせるために重要な要件になるのではないかと思います。と同時に、経験則ですが、これは大学院生の教育的にも非常に良いのではないかと思いました。手本としても批判材料としても、実際に同じ分析を手を動かしてやってみるのは、色々な発見があると思います。


さて、とりあえずこの話はこんなところでやめにしておきます。ちょっと話飽きたので。今週からはいよいよ春学期です。今学期の授業は5コマ(7ターム分)あり、どれも面白そうなものばかりなので、楽しみです。ある程度どんな授業がわかったら、それについてもまた書きたいと思います。それでは、また。

"地味"な科学 1

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久々の更新になります。先週はThanks giving dayのため、一週間ほど大学はお休みでした。そのお休みの最中に、Black Fridayという一年に一度の大セールの日を利用して、郊外のアウトレットモールに買い物に行ってきました。ブランド物の服や靴も平気で40%~60%OFFくらいされていて、かなりビックリしました。



今日は、”地味”な科学というテーマです。これは、日本にいたころから長い間ぼんやり考えていたことなのですが、こちらに来てからその考えが強化されるようになったので、ここで言語化してみようと思います。

正直こういったテーマで書くのは少し気が引ける部分があります。というのも、僕自身、科学哲学や科学史にそれほど造詣が深いわけでもないので、方々から「お前は何にもわかってないな」と罵られそうな気がしないでもないからです。まぁとはいっても、僕の発言にはどうせ大した力もないですし、所詮は一介の大学院生の適当な考えだということで、受け流してくれればいいなと思いながら、ここで書こうという考えに至りました。まだ考えがまとまっていない部分もあるため、読みにくかったり頓珍漢なことを言ってしまう部分もあるかもしれませんが、ご了承ください。あと、今日はちょっと長いです。すみません。



僕が大学院の世界に飛び込んでからというもの、様々な方からよく頂いてきたアドバイスのなかに、「”面白い”研究をするように」というものがあります。それ以来、”面白い”研究って何だろう、っていうのをしばしば考えるようになりました。

僕自身、まだその答えは見つけていません。それ以前に、そもそも研究が”面白い”必要がどこまであるのか、ということは非常に重要な問題だと思います。が、それは一旦置いておいて、まずは研究者の方々が考える”面白い”研究ってなんだ、っていうことについての僕の推測を述べたいと思います。誰かが「”面白い”研究」というようなことを口にするとき、それは例えば、以下のような類の研究を指すのではないかと思われます。


・研究が学術的に重要な(あるいは重要だと思われている)問いに答えている
・研究のトピックが近年重要な問題や流行(例:AI、自動運転など)に深く関連している
・研究手法がこれまでにない真新しいものである
・これまで発見されてこなかった新しい事実や根拠を提示する
・これまで確かだとされてきた理論や命題を反証する
・観察結果が人々の直観(あるいは常識的な考え)に反する
・観察結果から重要な示唆を引き出すことができる
・観察結果が適切に現実をとらえている(現実と乖離していない)
・観察結果から引き出された含意が、様々な状況に適用できる
・観察された事象に、ある種のドラマ性がある(感情的に人を惹きつける)


ざっと思いついた感じでこんなところでしょうか。これを読んでくださった方には、ぜひこの中の幾つが、ご自身のなかの「”面白い”研究」の定義に当てはまるか、ぜひ考えてみていただければと思います。あえて言うまでもないですが、これらは当然相互排他的なものではありません(ちなみに何が面白い研究なのかということについては、例えばアメリカの組織論研究者であるカール・ワイクが"Social Psychology of Organizing" (1979)のなかで12の面白い理論としてまとめています)。


例えばこのなかで、「観察結果が人々の直観(あるいは常識的な考え)に反する」という項目がありますが、ここで僕が不思議に思うのは、直観に反するかどうか以前に、その直観がどこまで確かなものとして検証されてきたのか、ということなのです。そこには、「だって皆そうだと思ってるから」以上の確かさがあるのでしょうか。「直観」という言葉を用いてしまうと、当然ある人にとっては直観に反するけど、別の人にとっては直観通りという面倒な問題が立ち上がるわけです。何が言いたいかというと、ここで「直観」などというものを持ち出してしまうと、それは研究を経験的・主観的な物差しで評価すると言っているようなもので、科学的とはかけ離れた危ういものになるのではないか、ということです(もちろん、これは程度問題です。こういった要素が全く重要でないと言っているわけではありません)。



他にも上に書いてあるリストのなかでの似たような性質を持つ表現として、「重要な」というのもあります。これも極めて主観的なものです。僕は決して、「問いの重要性」や「直観に反するかどうか」を軽視してもいい、と言っているわけではありません。ただ、そういう曖昧な尺度で研究の質が評価されてしまうことへの恐怖感というか、そういった感情を単に抱いているのです。


そのなかでも僕がもっとも懐疑的なのが、先ほども申し上げた”面白い”という尺度です。僕がこれまで関わってきた大学院関連の方々の人数は決して多くはありませんが、それでも皆さん面白いと思うポイントはバラバラです。皆さんが思う”面白さ”の平均点をとるような研究をするのがベストなんでしょうか。おそらくそれは、だれにとっても面白くない研究でしょう。そもそも、研究者が”面白い”と思う研究=社会的に価値のある研究なのでしょうか。これも難しい問題です。


なぜこんなにも主観的というか、曖昧な評価基準があるのかというと、それは単純に考えればその逆、客観的で厳密な評価基準がないから、ということになります。ですが、勿論ないわけではないのです。社会科学の世界でも、科学的な厳密性や正確性、あるいは統計分析であればその”もっともらしさ”を評価する基準は近年かなり整ってきているはずです。それでも依然として、経営学の世界では前者のような評価基準が重要な位置を占めているような気がして、それが良いのか悪いのかはさておき、僕自身は単純に不安感を抱くのです。



なぜ不安なのかな、と自分のなかで考えてみた結果思い立ったのは、「何も知ることができない」ような気がするから、というものです。ここ数年経営学の世界に身を置き、最新のものから古典的なものまで、論文や書籍を沢山読んできましたが、じゃあ経営に関して何を知っているのかといわれると、僕自身は正直に言ってほとんど何も知らないのです。


勿論色んな理論は知っています。何について説明している理論か、どういった研究があるのかも把握しています。ですが、それがどの程度確かなもので、どの程度の適用範囲があり、境界条件は何であり、どのくらいの効果が見られるのかということについては、ほとんどわからないのです。これは、おそらく僕だけではないと思います。つまり、とりわけ経営に関する事柄について、僕らは知っているつもりになっているだけで、その実ほとんど何も知らないのではないだろうか、ということなのです。


なぜなのでしょうか。一つの理由は、単に僕の勉強不足の可能性です(その可能性は大いにあります)。二つ目は、自然科学と異なり、社会科学ではそもそもそういったことは知りえないから、というものです。これはかなり込み入った問題であり、正直ここではあまり書きたくありません。一つだけ言っておくと、「そういったことは知りえない」という立場を、僕は取りたくありません。この問題は、とりあえず無視しておきます。

これらの可能性を取り払ったとき、もう一つの考えられる理由としては、これまで経営学の世界で提示されてきた理論なり命題なりが、厳密な実証を耐え抜いてきたものではないからだ、というものです。


以前ある飲み会の場で、とある大学のMBAを修了された方に、「ここ最近での、経営学の一番の発見って何ですか?」と聞かれたのですが、僕の答えは、「いやーーー。。。」でした。

このとき、僕は特段直観に反する”面白い”理論を説明しようとしたわけではなく、単に経営学の専門家の間で概ねコンセンサスが取れているであろう、数多くの実証に耐え抜いてきた”現時点で”正しいといっても差し支えないであろう理論を言おうとしただけなのですが、残念ながら僕の頭には何も浮かびませんでした。



僕自身がこのような考えを始めて持ったきっかけについて少しだけお話しします。僕は日本にいたころイノベーションについて研究してきました。修士時代には、とりわけ数多くの論文を読まされてきましたが、そのとき僕にとって最初に印象に残ったのは、イノべーションという言葉が持つ曖昧性と多義性でした。


イノベーションには色々なパターンや傾向があることが、これまでの研究で分かっています。これらは、専門の人にとっては常識ですが、そうでない人にとっては当然馴染みのないものばかりだと思います。例えば、以下のようなものです。


・Product innovation - Process innovation
・Radical innovation - Incremental innovation
・Disruptive innovation - Sustaining innovation
・Competence-destroying innovation - Competence-enhancing innovation
・Architectual innovation - Modular innovation


こういった分類があるのを始めて知ったときの僕の第一印象は、「なんだこれ?」って感じでした。未だに個々の分類がどういう包含関係にあるのかよくわかっていませんし、個々の厳密な定義すらよく知りません。修士の学生ながら、内心「みんな好き放題言いすぎだろ」と思っていました。


で、これらのパターンがあることは分かりました。そして、どうやら企業の規模の大きさとか産業の段階によって観察されるパターンが変わるらしい、ということも分かりました。そして更に分かったことは、「それで?」という次の問いに進んだ時に、途端に壁にぶつかるということでした。

実はそれ以上のことをほとんど何も知らないのです。「何も知らない」というのは、かなり語弊がある言い方かもしれません。こうしたパターンの議論からさらに発展させた理論的な研究や実証的な分析が、これまでに数多く行われているからです。ですが、そのなかに一体どれだけ”どうやら確からしい”と言える理論や命題があるのでしょうか。



今回僕が一番言いたいことは何かというと、他の学問分野と比べてとりわけ経営学が抱えている大きな問題の一つとして、「理論つくりすぎ問題」があるということです。とにかく「新しい”理論”を打ち出そう」という意欲に燃えた研究を、僕はここでは「”派手な”科学」と呼びたいと思います。これは、かつては、個人的にぼんやり思っていた印象程度だったのですが、最近次の二つの論文を読んで、首が痛くなるくらい頷いたので、ただの印象から自分なりの信念へと昇華することができました。まだ読んだことがなく、興味のある方々には、是非とも読んでいただきたい論文です。


・Pillutla, M. & Thau, S. (2013). Organizational sciences’ obsession with “that’s interesting!”. Organizational Psychology Review, 3, 187–194.
・Mathieu, J. E. (2016). The problem with [in] management theory. Journal of Organizational Behavior, 37(8), 1132-1141.



一つ目なんかはタイトルからもう明らかですが、これらの論文が何を言っているかをざっくりまとめると、経営学者は、理論が正確であるとか役に立つとかということよりも、”面白い”かどうかということにこだわりすぎていて、結果としてTestabilityやReplicabilityの低い理論ばかりが生み出されていることに対して警鐘を鳴らしています。

一つ目の論文のアブストラクトにある、'the organizational science’s increasing preoccupation with ‘‘interesting’’ theories and ‘‘counterintuitive’’ facts can lead to nonreplicable findings, fragmented theory, and irrelevance.' という文言がすべてを言い表していると思います。'fragmented theory'という言葉が、僕はすごく好きです。


断っておきたいのですが、僕はここまで「”日本の”経営学が~」といった枕詞は一切使っていません。この問題は、どうやら「日本が~」とか「アメリカが~」とかそういう単純な二元論に落ち着くものでもないようなのです。例えば、ペンシルバニア州立大学のDonald Hambrick教授は、経営学の分野でいわゆる"A"ランクとされるようなジャーナル(AMJなど)が、投稿論文に対してtheoretical contributionを過度に求めすぎている結果として、研究者が理論のテストよりも理論の量産に奔ってしまっていることを指摘しています。

Hambrick, D. C. (2007). The field of management's devotion to theory: Too much of a good thing?. Academy of Management Journal, 50(6), 1346-1352.


つまり、これは経営学全体の問題です。さらにこの論文は、近接領域と比べても経営学は特段この傾向が強いと言っています。なぜかはわかりません。

何かしら新しい理論が打ち出されること自体は別に良いことだと思うのですが、経営学の世界で、それをきちんとデータを用いて検証して、追試に追試を重ねて、「これはどうやら確からしいね」という専門家のコンセンサスを得るまでに至った理論って今までどれだけあるんでしょうか。


僕が置かれていた環境についてもう少しだけ話すと、僕がしばしば感じたのは、レプリケーションに対する異常なまでの嫌忌でした。これは本当に不思議でなりませんでした。なぜなら、僕が大学院に入る前に抱いていた科学に対する印象は、まさに「追試に追試を重ねて真実に辿り着く」というような極めて地味なものだったからです。
僕も大学院に入ったら、実験室ではないけれども、それに近いことをやるんだろうな、と思っていました。しかし蓋を開けてみれば、「同じような研究をするのは悪だ」というような風潮がありました。そこで、僕の科学に対するイメージが大きく覆されたのです。


これは、科学において不可欠な営みであると僕が思い込んでいた地味な検証作業は、実験室のなかでやるような自然科学の世界だけのことで、社会科学ではそもそもそんなこと出来ないんだからやるだけ無駄だ、ということなのでしょうか。そうだとするならば、経営学を”科学”たらしめているものは一体何なのでしょう。”科学”じゃない、というのが答えなんでしょうか。あるいは他の、”科学”たらしめている何かがあるのでしょうか。これらについては、本気で答えが知りたいです。


理論の量産、そして検証や追試の軽視、その結果として起こっていることが、競争の軸が現象のラベリング大会になってしまっており、「ではその理論は何を教えてくれるのか」という問題に立ち入った時に、明確な回答を出すことができない。そういったことが経営学で起こっているんではないだろうか、と思うのです。


断っておきますが、僕は新しい理論を生み出す研究を決して軽視しているわけではありません。それらは、非常に重要なことです。僕は、理論が「生み出されて終わり」になってしまっていることに気持ち悪さを覚えているだけなのです。そしてもう一つ、新しい理論を生み出すような”派手な”研究をする人が偉く、その後の検証や追試といった”地味な”研究をするのは悪、みたいな雰囲気に不快感を抱いているだけなのです。


長々と書きましたが、実はまだ書きたいことを書ききれていません。ここまでの僕の主張を一言でまとめると、「研究者はもっと”地味”さを受け入れるべき」だということです。
次回は今回のテーマの続きとして、経営学の世界で”地味”な科学を追究する試みについて書きたいと思います。それでは、また。

復讐


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↑日本にいた頃の大学院の指導教官と同じゼミの後輩が送ってくれた煮干しを使って作った自家製煮干しラーメン。神の味。



こんにちは。ブログを始めてまだ二カ月あまりですが、早くも更新が滞っており挫折しそうになっています。今日、計量経済学の授業の中間試験が終わりやっと一息つけたので、自分を奮い立たせてなんとか頑張って書きます。



まず、物騒なタイトルをつけてしまってすみません。無論ですが、犯罪を犯すつもりはありません。ただ、この中二病くさい二文字が長らく僕のなかでの大きな原動力になっていて、いつかどこかにぶちまけたいと思っていたので、ここで書こうと思います。



現在通っている大学院で、同学年同専攻のAliとは授業でも授業外でもよく一緒に過ごしているのですが、彼によく「4年も日本の大学院にいたのに、なんで日本で学位をとらないでこっちに来たの?」と不思議がられます。なんて答えているか具体的にはここでは言いません(言えません)が、その話題になるとき、いつも僕が日本でもよく考えていたことが頭をよぎります。


僕が2014年に日本の大学院に進んで以来、様々な人(勿論大学外です)からこんな言葉を言われてきました。幾つかはテンプレみたいなよくあるセリフですが、実際に言われた言葉たちです。


「なんで文系なのに大学院進むの?」
「なんで会社に勤めたことないのに経営学やってるの?」
「実社会を知らないで社会科学の研究やっても意味なくない?」
「とりあえず一旦就職したら?それから大学院に戻ってもいいじゃん」

それから、僕は昨年結婚したのですが、そのときには

「早く働いて奥さん支えなよ」
「奥さんかわいそう」
「つかヒモじゃん」


「いやうるせぇよ」、って感じなんですが、そうも言えない相手から言われることもあるので、「そうですね、ハハ」くらいな感じで流すしかないです(ちなみに僕はこの”流す”という行為が本当に大嫌いで、いつも屈辱を感じます)。被害者意識が強すぎると言われれば、まぁそうなんですが、特に結婚前後は、僕は犯罪でも犯したのかというくらい多方面から、”直接攻撃”とまではいかないけれども、遠まわしに非難される経験を何度もしました。大学時代の今でも付き合いのある友人には理解がある人がやはり多く、こういった類のことも半ば冗談交じり、フォロー交じりで言う程度なんですが、それでも毎回ちょっとずつ傷つきます。じつは結構ナーバスです。


一番つらかったのは、僕の奥さんが、彼女が働いてる会社の上司や同僚からこういった類のことを散々言われたというのを耳にしたときです。彼女はそういうときちゃんと言い返してくれているらしく、本当に有難い限りなのですが、同時に申し訳ない気持ちでいっぱいになります(じゃあ結婚するなよ、って言われそうですが)。



話は少し変わりますが、僕の同期の大学時代の友人たちは、皆ほんとうに良いところに就職しています。なかには、この歳にして年収1000万を超えている人もいるかもしれません(というか、います)。経済学の基本的な考え方の一つに”機会費用”というのがありますが、ときどき「もし自分が当初行きたいと考えていた会社に勤める選択をしていたら今頃いくら稼いでるだろう」と計算したりします。こういった経済的な効用をとっても、先ほど述べたステータス的な意味での社会的な効用をとっても、まったく(社会科学系の)大学院に進むという行為は、合理的な選択からは程遠いものにあるんじゃないかと思ってしまいます。



何が言いたかったかというと、これこそが僕が留学をする決断をした一つの強い動機になったということです。いままで、僕に反発的な意見を浴びせかけてきた全ての人間を将来心の中で見下ろせるレベルにまで到達したい、彼らに「僕の選択は正しかった」と思わせたい、つまり復讐です。彼らを見返すもっとも効果的な方法、つまり復讐の手段ですが、それは悲しいことに”金”という結論に達しました。
僕が留学して、うまくいって学位をとれたとして、どこかの大学の先生になれたとしても、そこで得られる社会的な地位はたかが知れてるだろう(勿論人によります)、だとしたらもう金稼ぐしかねえじゃん、って感じです。だから、僕の将来の一つの目標は、すごく幼稚なんですが、”いっぱい金を稼ぐ”ことです。リーガル・ハイというドラマの第9話で主人公の古美門弁護士が言っていたセリフと全く同じです(わかる人にだけ伝われ)。


こういったことを悶々と考えるなかで、今のキャリアパスを維持しつつ、最大限”いっぱい金を稼ぐ”可能性を拡げる方法として、5年間を費やして留学するのがいいんじゃないかという考えに至りました(とはいえ、正直モトがとれるかなんとも言えないんですが)。



で、前にも少し話したのですが、こちらに来てからというもの、そういった環境とは今のところ全く無縁なところに来ていることを改めて実感しています。正確に言えば、大学院に進むという選択に対して批判的な空気が”無い”というよりも、そもそも他人の人生に口を出すという考え方が”無い”、という感じです(まぁまだ暫定的な印象ですけど)。

Aliに上で述べたような僕の経験を話したとき、”crazy”だと言われました。「今まで”crazy”だと思われてきたのは俺のほうなんだけどな」、という何とも不思議な感覚が芽生えました。僕は自分の選択に酔っているつもりもありませんし、ここまでしてきた選択が全て正しかったのかも分かりません。ただはっきり言いたいのは、「他人の人生に口出すな」ってことだけです。そういう煩わしさから解放されたという意味で、いま現在の生活は居心地の良いものになっています。もちろん、他の様々な側面で日本の便利さ、豊かさも痛感していますが。




今までの内容に比べてかなり”誰得”な内容になってしまいましたが、まぁあくまで個人のブログだからいいか。
秋学期もようやく折り返しました。授業の数が一個減るので前半期は少し余裕ができると思います。いい加減そろそろ車を手に入れないとやばいですね。それでは、また。