"地味"な科学 1

unnamed1


久々の更新になります。先週はThanks giving dayのため、一週間ほど大学はお休みでした。そのお休みの最中に、Black Fridayという一年に一度の大セールの日を利用して、郊外のアウトレットモールに買い物に行ってきました。ブランド物の服や靴も平気で40%~60%OFFくらいされていて、かなりビックリしました。



今日は、”地味”な科学というテーマです。これは、日本にいたころから長い間ぼんやり考えていたことなのですが、こちらに来てからその考えが強化されるようになったので、ここで言語化してみようと思います。

正直こういったテーマで書くのは少し気が引ける部分があります。というのも、僕自身、科学哲学や科学史にそれほど造詣が深いわけでもないので、方々から「お前は何にもわかってないな」と罵られそうな気がしないでもないからです。まぁとはいっても、僕の発言にはどうせ大した力もないですし、所詮は一介の大学院生の適当な考えだということで、受け流してくれればいいなと思いながら、ここで書こうという考えに至りました。まだ考えがまとまっていない部分もあるため、読みにくかったり頓珍漢なことを言ってしまう部分もあるかもしれませんが、ご了承ください。あと、今日はちょっと長いです。すみません。



僕が大学院の世界に飛び込んでからというもの、様々な方からよく頂いてきたアドバイスのなかに、「”面白い”研究をするように」というものがあります。それ以来、”面白い”研究って何だろう、っていうのをしばしば考えるようになりました。

僕自身、まだその答えは見つけていません。それ以前に、そもそも研究が”面白い”必要がどこまであるのか、ということは非常に重要な問題だと思います。が、それは一旦置いておいて、まずは研究者の方々が考える”面白い”研究ってなんだ、っていうことについての僕の推測を述べたいと思います。誰かが「”面白い”研究」というようなことを口にするとき、それは例えば、以下のような類の研究を指すのではないかと思われます。


・研究が学術的に重要な(あるいは重要だと思われている)問いに答えている
・研究のトピックが近年重要な問題や流行(例:AI、自動運転など)に深く関連している
・研究手法がこれまでにない真新しいものである
・これまで発見されてこなかった新しい事実や根拠を提示する
・これまで確かだとされてきた理論や命題を反証する
・観察結果が人々の直観(あるいは常識的な考え)に反する
・観察結果から重要な示唆を引き出すことができる
・観察結果が適切に現実をとらえている(現実と乖離していない)
・観察結果から引き出された含意が、様々な状況に適用できる
・観察された事象に、ある種のドラマ性がある(感情的に人を惹きつける)


ざっと思いついた感じでこんなところでしょうか。これを読んでくださった方には、ぜひこの中の幾つが、ご自身のなかの「”面白い”研究」の定義に当てはまるか、ぜひ考えてみていただければと思います。あえて言うまでもないですが、これらは当然相互排他的なものではありません(ちなみに何が面白い研究なのかということについては、例えばアメリカの組織論研究者であるカール・ワイクが"Social Psychology of Organizing" (1979)のなかで12の面白い理論としてまとめています)。


例えばこのなかで、「観察結果が人々の直観(あるいは常識的な考え)に反する」という項目がありますが、ここで僕が不思議に思うのは、直観に反するかどうか以前に、その直観がどこまで確かなものとして検証されてきたのか、ということなのです。そこには、「だって皆そうだと思ってるから」以上の確かさがあるのでしょうか。「直観」という言葉を用いてしまうと、当然ある人にとっては直観に反するけど、別の人にとっては直観通りという面倒な問題が立ち上がるわけです。何が言いたいかというと、ここで「直観」などというものを持ち出してしまうと、それは研究を経験的・主観的な物差しで評価すると言っているようなもので、科学的とはかけ離れた危ういものになるのではないか、ということです(もちろん、これは程度問題です。こういった要素が全く重要でないと言っているわけではありません)。



他にも上に書いてあるリストのなかでの似たような性質を持つ表現として、「重要な」というのもあります。これも極めて主観的なものです。僕は決して、「問いの重要性」や「直観に反するかどうか」を軽視してもいい、と言っているわけではありません。ただ、そういう曖昧な尺度で研究の質が評価されてしまうことへの恐怖感というか、そういった感情を単に抱いているのです。


そのなかでも僕がもっとも懐疑的なのが、先ほども申し上げた”面白い”という尺度です。僕がこれまで関わってきた大学院関連の方々の人数は決して多くはありませんが、それでも皆さん面白いと思うポイントはバラバラです。皆さんが思う”面白さ”の平均点をとるような研究をするのがベストなんでしょうか。おそらくそれは、だれにとっても面白くない研究でしょう。そもそも、研究者が”面白い”と思う研究=社会的に価値のある研究なのでしょうか。これも難しい問題です。


なぜこんなにも主観的というか、曖昧な評価基準があるのかというと、それは単純に考えればその逆、客観的で厳密な評価基準がないから、ということになります。ですが、勿論ないわけではないのです。社会科学の世界でも、科学的な厳密性や正確性、あるいは統計分析であればその”もっともらしさ”を評価する基準は近年かなり整ってきているはずです。それでも依然として、経営学の世界では前者のような評価基準が重要な位置を占めているような気がして、それが良いのか悪いのかはさておき、僕自身は単純に不安感を抱くのです。



なぜ不安なのかな、と自分のなかで考えてみた結果思い立ったのは、「何も知ることができない」ような気がするから、というものです。ここ数年経営学の世界に身を置き、最新のものから古典的なものまで、論文や書籍を沢山読んできましたが、じゃあ経営に関して何を知っているのかといわれると、僕自身は正直に言ってほとんど何も知らないのです。


勿論色んな理論は知っています。何について説明している理論か、どういった研究があるのかも把握しています。ですが、それがどの程度確かなもので、どの程度の適用範囲があり、境界条件は何であり、どのくらいの効果が見られるのかということについては、ほとんどわからないのです。これは、おそらく僕だけではないと思います。つまり、とりわけ経営に関する事柄について、僕らは知っているつもりになっているだけで、その実ほとんど何も知らないのではないだろうか、ということなのです。


なぜなのでしょうか。一つの理由は、単に僕の勉強不足の可能性です(その可能性は大いにあります)。二つ目は、自然科学と異なり、社会科学ではそもそもそういったことは知りえないから、というものです。これはかなり込み入った問題であり、正直ここではあまり書きたくありません。一つだけ言っておくと、「そういったことは知りえない」という立場を、僕は取りたくありません。この問題は、とりあえず無視しておきます。

これらの可能性を取り払ったとき、もう一つの考えられる理由としては、これまで経営学の世界で提示されてきた理論なり命題なりが、厳密な実証を耐え抜いてきたものではないからだ、というものです。


以前ある飲み会の場で、とある大学のMBAを修了された方に、「ここ最近での、経営学の一番の発見って何ですか?」と聞かれたのですが、僕の答えは、「いやーーー。。。」でした。

このとき、僕は特段直観に反する”面白い”理論を説明しようとしたわけではなく、単に経営学の専門家の間で概ねコンセンサスが取れているであろう、数多くの実証に耐え抜いてきた”現時点で”正しいといっても差し支えないであろう理論を言おうとしただけなのですが、残念ながら僕の頭には何も浮かびませんでした。



僕自身がこのような考えを始めて持ったきっかけについて少しだけお話しします。僕は日本にいたころイノベーションについて研究してきました。修士時代には、とりわけ数多くの論文を読まされてきましたが、そのとき僕にとって最初に印象に残ったのは、イノべーションという言葉が持つ曖昧性と多義性でした。


イノベーションには色々なパターンや傾向があることが、これまでの研究で分かっています。これらは、専門の人にとっては常識ですが、そうでない人にとっては当然馴染みのないものばかりだと思います。例えば、以下のようなものです。


・Product innovation - Process innovation
・Radical innovation - Incremental innovation
・Disruptive innovation - Sustaining innovation
・Competence-destroying innovation - Competence-enhancing innovation
・Architectual innovation - Modular innovation


こういった分類があるのを始めて知ったときの僕の第一印象は、「なんだこれ?」って感じでした。未だに個々の分類がどういう包含関係にあるのかよくわかっていませんし、個々の厳密な定義すらよく知りません。修士の学生ながら、内心「みんな好き放題言いすぎだろ」と思っていました。


で、これらのパターンがあることは分かりました。そして、どうやら企業の規模の大きさとか産業の段階によって観察されるパターンが変わるらしい、ということも分かりました。そして更に分かったことは、「それで?」という次の問いに進んだ時に、途端に壁にぶつかるということでした。

実はそれ以上のことをほとんど何も知らないのです。「何も知らない」というのは、かなり語弊がある言い方かもしれません。こうしたパターンの議論からさらに発展させた理論的な研究や実証的な分析が、これまでに数多く行われているからです。ですが、そのなかに一体どれだけ”どうやら確からしい”と言える理論や命題があるのでしょうか。



今回僕が一番言いたいことは何かというと、他の学問分野と比べてとりわけ経営学が抱えている大きな問題の一つとして、「理論つくりすぎ問題」があるということです。とにかく「新しい”理論”を打ち出そう」という意欲に燃えた研究を、僕はここでは「”派手な”科学」と呼びたいと思います。これは、かつては、個人的にぼんやり思っていた印象程度だったのですが、最近次の二つの論文を読んで、首が痛くなるくらい頷いたので、ただの印象から自分なりの信念へと昇華することができました。まだ読んだことがなく、興味のある方々には、是非とも読んでいただきたい論文です。


・Pillutla, M. & Thau, S. (2013). Organizational sciences’ obsession with “that’s interesting!”. Organizational Psychology Review, 3, 187–194.
・Mathieu, J. E. (2016). The problem with [in] management theory. Journal of Organizational Behavior, 37(8), 1132-1141.



一つ目なんかはタイトルからもう明らかですが、これらの論文が何を言っているかをざっくりまとめると、経営学者は、理論が正確であるとか役に立つとかということよりも、”面白い”かどうかということにこだわりすぎていて、結果としてTestabilityやReplicabilityの低い理論ばかりが生み出されていることに対して警鐘を鳴らしています。

一つ目の論文のアブストラクトにある、'the organizational science’s increasing preoccupation with ‘‘interesting’’ theories and ‘‘counterintuitive’’ facts can lead to nonreplicable findings, fragmented theory, and irrelevance.' という文言がすべてを言い表していると思います。'fragmented theory'という言葉が、僕はすごく好きです。


断っておきたいのですが、僕はここまで「”日本の”経営学が~」といった枕詞は一切使っていません。この問題は、どうやら「日本が~」とか「アメリカが~」とかそういう単純な二元論に落ち着くものでもないようなのです。例えば、ペンシルバニア州立大学のDonald Hambrick教授は、経営学の分野でいわゆる"A"ランクとされるようなジャーナル(AMJなど)が、投稿論文に対してtheoretical contributionを過度に求めすぎている結果として、研究者が理論のテストよりも理論の量産に奔ってしまっていることを指摘しています。

Hambrick, D. C. (2007). The field of management's devotion to theory: Too much of a good thing?. Academy of Management Journal, 50(6), 1346-1352.


つまり、これは経営学全体の問題です。さらにこの論文は、近接領域と比べても経営学は特段この傾向が強いと言っています。なぜかはわかりません。

何かしら新しい理論が打ち出されること自体は別に良いことだと思うのですが、経営学の世界で、それをきちんとデータを用いて検証して、追試に追試を重ねて、「これはどうやら確からしいね」という専門家のコンセンサスを得るまでに至った理論って今までどれだけあるんでしょうか。


僕が置かれていた環境についてもう少しだけ話すと、僕がしばしば感じたのは、レプリケーションに対する異常なまでの嫌忌でした。これは本当に不思議でなりませんでした。なぜなら、僕が大学院に入る前に抱いていた科学に対する印象は、まさに「追試に追試を重ねて真実に辿り着く」というような極めて地味なものだったからです。
僕も大学院に入ったら、実験室ではないけれども、それに近いことをやるんだろうな、と思っていました。しかし蓋を開けてみれば、「同じような研究をするのは悪だ」というような風潮がありました。そこで、僕の科学に対するイメージが大きく覆されたのです。


これは、科学において不可欠な営みであると僕が思い込んでいた地味な検証作業は、実験室のなかでやるような自然科学の世界だけのことで、社会科学ではそもそもそんなこと出来ないんだからやるだけ無駄だ、ということなのでしょうか。そうだとするならば、経営学を”科学”たらしめているものは一体何なのでしょう。”科学”じゃない、というのが答えなんでしょうか。あるいは他の、”科学”たらしめている何かがあるのでしょうか。これらについては、本気で答えが知りたいです。


理論の量産、そして検証や追試の軽視、その結果として起こっていることが、競争の軸が現象のラベリング大会になってしまっており、「ではその理論は何を教えてくれるのか」という問題に立ち入った時に、明確な回答を出すことができない。そういったことが経営学で起こっているんではないだろうか、と思うのです。


断っておきますが、僕は新しい理論を生み出す研究を決して軽視しているわけではありません。それらは、非常に重要なことです。僕は、理論が「生み出されて終わり」になってしまっていることに気持ち悪さを覚えているだけなのです。そしてもう一つ、新しい理論を生み出すような”派手な”研究をする人が偉く、その後の検証や追試といった”地味な”研究をするのは悪、みたいな雰囲気に不快感を抱いているだけなのです。


長々と書きましたが、実はまだ書きたいことを書ききれていません。ここまでの僕の主張を一言でまとめると、「研究者はもっと”地味”さを受け入れるべき」だということです。
次回は今回のテーマの続きとして、経営学の世界で”地味”な科学を追究する試みについて書きたいと思います。それでは、また。